平田玉蘊  年譜


1787年 尾道に生まれる
幼い頃より、福原五岳につき絵を学ぶ
1806年 菅茶山「豊女史画牡丹花」で豊の美しさを称える
父五峯(新太郎)病没
1807年 竹原にて頼山陽と出会う
1809年 山陽、神辺の廉塾の都講となる
1810年 尾道浄土寺の杉戸に「蔓薔薇図」「山桜図」を画く
1811年 二月、山陽神辺を発ち、京へと入り、私塾を開く
六月、玉蘊、母と妹と共に京へと旅立つ。二月ほど滞在するが、失意の元、尾道に帰る
1813年 山陽美濃にて江馬細香と出会う
1814年 山陽の後の妻、梨影を妾とする
1815年 白鶴鳴と出会う。山陽は橋本竹下に宛て「玉蘊は汚された」と手紙を出す
1816年 鶴鳴、玉蘊の元を去るが。再び戻り、「狂蝶浪蜂憐れむべき候」と山陽が竹下に手紙を出す。
鶴鳴、玉蘊の元から再び去る
1825年 「芸藩通誌」「尾道志稿」完成。玉蘊の古鏡題詠詩掲載
名流婦人寄書画巻に蘭石図を掲載
1827年 山陽「日本外史」脱稿
菅茶山病没
1832年 山陽病没(五十三歳)
1834年 尾道慈観寺本堂の襖絵「桐鳳凰図」に取りかかる
1855年 玉蘊没す(六十九歳)


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