4月14日(橋本氏撮影画像)




トスカーナ神髄旅行記 序章・精神に触れる描写


 昨年の冬の始まりから今年2月末までの期間、地元ボローニャで「人体解剖とその表現展」と言うのが開催された。
ボローニャには創立910年を越す、ヨーロッパ最古の大学があり、かつて法律、医学、哲学研究の中心として
ヨーロッパ文化の核であった過去を持っている。
 だから、世界初の人体解剖を行なった階段教室や、「スペークラ」と呼ばれる精巧な臓器模型のコレクションでも有名な
大学関連施設の一角で、この変わった展示会が開催されたのは、ある意味で必然であったと言えるかも知れない。

哲学の面から、「思想とは何か、精神とは何か」を問いつめて行く事は、「人間とは何か、身体とは何か」
という面での追求が欠かせない作業となっていた時代・・・簡単に言えば「人間の身体の中ってどうなっているの?」という
疑問が湧いて来た、もっと正確に言えば「自分たちの身体、バラしてもいいのかな?」と行動を起こす者が現れて来た
中世からの歴史を振り返る展示会だ、と言い換える事も出来る。

 この展示会は、そのグロテスクな内容にもかかわらず多くの観覧者を集めたため、会期が2度に渡って延期されたのだが、
目玉展示物は、何と言ってもイタリア中部の山村出身の、摘出子で正式な苗字の無い(言わば無名な)画家のデッサンだった。
 そしてこの僕も、たった10枚程度の、500年前の直筆デッサンを見るために出かけて行った事になる。

 イタリアにはそれこそ無数の画家が生まれ、世界の美術界を席巻して行ったのだが、その多くが「ボッテーガ」と呼ばれる、
総合工房で修行を積み、師匠の技を受け継ぎ、やがて独立して行くという過程を経る。
多くは12、3才程度で弟子入りするが、ほとんどが苗字でなく、その名前で呼ばれる。
いや、苗字がもらえない社会レベルの子供が集まるという背景もあった。

 ところが、名前で呼んで行くと、フランチェスコや、アレサンドロ、アントニオと言った一般的な名前が多くて
重複混乱してしまうので、成功するにつれ、苗字のある者は苗字で、苗字の無い少年は出身地名で呼ばれて行く。

 この(無名だった)リオナールド少年は、後に、出身地の村の名を借りて「ヴィンチ村出身の」として有名になって行くが、
500年を経った現在「レオナルド」と、その名前だけで呼ばれることで、それが「ダ・ヴィンチ」を
後ろに付けた画家を表すというのは、絵画の分野で自分が代名詞そのものになったという意味を持つ。

 ルネサンスの扉を開けた画家ボッティチェッリは苗字であり、彼がその名前「アレサンドロ」と呼ばれなかったのは何故か、
また逆に、ブォナロッティという苗字を持ちながら「ミケランジェロ」という名前だけで呼ばれているのは何故か・・・
この裏にはイタリア人の持つ「礼儀、敬意の表現」が見えて来る。

 名前だけで呼ぶことが、即、苗字までを含んで「あ、レオナルドと言えば、当然ダ・ヴィンチのことだよ」と
暗黙の了解ができている。

 だから苗字よりも名前が有名になることはまた、天才というカテゴリーに入った事の証明かも知れない。
レオナルド、ミケランジェロと並ぶもう一人の天才ラファエッロの苗字を正確に答えられるイタリア人は、どのくらい居るだろうか。

 「レオナルド」は「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の代名詞として500年間、人々を納得させ続けて来たのだ。

 で・・・僕もその納得をさせていただきに、ボローニャの中心まで出かけて行った。

 入場すると、暗い標本室に突然入ってしまう。そこには沢山の動物の骨、角、牙が陳列されている。
ゆっくり見て行くと、ドラゴンの標本という、明らかに捏造と思われる工芸的な剥製もあったりして、
科学と言う分野にいかに想像力が必要か考えさせられる。

 順路に沿って見て行くと、人体の解剖と言うのは、当時キリスト教の教えの基本として
「完全なる神が作った完全なるコピーである人体は全宇宙の中心である」というのに疑問を持つきっかけになる、
いわば危険な行為であり、それでも解剖を行なうということの崇高さに、安易に生きて行ける21世紀の
自分の身が引き締まって来る想いがする。

 そして、この展示会の目玉作品は奥の一室にあった。完全空調設備、監視カメラを備えた密室で、
当然のことながら日光は一切遮断されている。
 分厚いガラスケース越しとはいえ、その作品をほんの30cm程度で見られるのだから、これで6ユーロは安い。
全く安い!。(一緒に連れて来た息子も娘も、学生だからタダなので、さらにお得です!)。
で、しかも誰も居ないこの一室で、ゆっくりと500年前の黄色い紙に向き合う事ができた。

・・・そこには、左手が作る普通とは逆の斜線で頭蓋骨や、子宮や、胎児や、神経や、骨が描かれていたのだが、
対象物の描写を超えた「何か凄いもの」があった。

 紙に描かれたもの、というよりはそこから何かが僕に向かって「放射されている」という感じがする。
で、その放射線のようなものは、当然僕の目を通して脳に行っているのだが、見ていると胸が熱くなって来るのが不思議だった。

人間の「気持ち」とは何か?

人間の「心」とはどこにあるのか?

 その、500年前の黄ばんだ紙には「精神そのもの」が定着されていたのだ、と気づいたのは自宅に帰ってからであった。


 で、おそまきながら
1=今度の恭子ツアーは今まで「ドップリ・イタリア」略してドプイタと呼んでいたのを改称して「トスカーナ神髄ツアー」とする。
2=名前が「間」グループなのだから、ゆっくりと「間」を持ち、のんびりとしてラテン的に「間」の抜けた小旅行を企画しよう。

3=僕お薦めの絶景を見ていただく事で、「感性の修復と保存を図る」のは今までと同じ基本姿勢だが、
今回時間が許せば5年ぶりにヴィンチ村を訪ねようか。

・・・という3大目標を掲げたのも、500年前の「絵も、ちょこっと片手間に描いた偉大な思想家」のおかげでありました。
これで6ユーロですからね、安いモノです。


(以下続く)

おまけ=画家ムンクの描く自然描写(石ころやコケや、川原の風景)ですが、「生きている自然、精神を持つ風景」を感じます。



トスカーナ神髄旅行記 第一章・エトルリア文明の岩盤都市を巡る 


 ここ数日に渡って降り続いた雨がきれいに上がった快晴の朝、6時に地元のサヴィーニョ村を出発する。
ちょうど夏時間になったばかり、低い陽射しに輝く満開の桜の華を左右に見ながら、アペニン山脈を超えるべく高度を上げて行く。

 イタリアの背骨と呼ばれるアペニン越えをする頃に、快晴の空の片隅にしっかりとした雲が貼り付いているのを認識する。
それは、アペニン山脈の最高点、その峠近郊に被さった黒雲の一群だった。

「あそこから霧に突入して、まもなく雨が降るよ」と助手席の娘に告げる。

 やがて、予想通りに、いや予想以上に激しい雨が降り出し、クルマのスピードを落としながらアペニン山脈を超える。

 エミリア・ロマーニャ州からトスカーナ州に入るだけで、なぜこんなに僕の血が騒ぐのかいつも不思議なのだが、
それは明らかな事実で、身も心も軽くなって来る。


トスカーナ・・・その、芸術と食事と風景の聖地に、今回の「間ツアー」の方々を連れて行くのが目的だった。
 で、今までの経験を踏まえて、今回は日程を以下の様に組んだ。

一日目はエトルスキ文明の岩盤都市の絶景と食事。

バーニヨ・レージョ経由ピティリャーノ泊まり

二日目はトスカーナ丘陵地帯と絶句食事、絶品酒、サンジミの素晴らしさ。
ピエンツァ経由サンジミ泊まり

三日目は体調により、いかようにでもツブシをきかせる。
全く予定無し(一応は)

という計画であった。


 今回のドライブ日程では、トスカーナの部だけで500km程度、それにボローニャ往復の250kmを加えて、
まあ、800km以下の予想だった。

初日の今日は350kmで、年間4万km運転する僕にとっては許容範囲だが、旅行の準備で前夜4時間しか寝ていないし、
3月から技術通訳の仕事が連続していた疲れと相まって、体調は決して良いとは言えない。
バーニョ・レージョに着いたら、あの岩盤の上の村は恭子センセにお任せして、僕は橋の下で
少し昼寝させてもらおうか・・・と目論んでいた。

 クルマはアペニン山脈の南側に廻って、フィレンツェまでの長い下りにかかる。

ドイツから文豪ゲーテが「光の国」として憧れたイタリアの、そのもっともイタリアらしい「アペニン以南」へ降りる道だ。
天気が良ければここからプラート、フィレンツェが一望に見渡せるのだが今日は全く見えず、
洗車トンネルの中に入ったような雨がクルマを叩く。

 やがてフィレンツェの環状線部に入り、思ったより快適に走って来ているのに安心する。

晴れていれば、遥か遠くにあの大聖堂のクーポラが見えるのだが、たれ込めた雲で見えない。

SIGNA口から降りて、中心に向かって行く。当てにしていた橋が工事中で渡れないのでかなり大回りして、
それでも予定通りの時間にレンタカー事務所に着き、クルマを受け取る。

 ベンツの8人乗り、5mを超えるミニバスで、泉は大喜び。さっそく間一行様をお迎えに。

 恭子センセとは2ヶ月振り。他のメンバーとは全員初めてのお目見え。
しかし、初めてのイタリアで、この「ドプイタツアー」、いや改め、「トスカーナ神髄ツアー」に参加なんかしたら
後が大変ですよ、と助言したくなる。

 なにしろ僕が代表の「KHK,感性保存協会」推薦の5感解放ツアーだから、イタリア病感染間違いなし、
後に日本で後遺症に苦しむ事になります。(現にKセンセが重症患者です)

 どうにかフィレンツェを抜け出して、高速で一気に南下、1時間ちょっとで、サッと150kmを稼いでしまう。
 トスカーナ特有の小さな丘や無数の糸杉は、薄くかかったベールの向こうで滲むように移動して行く。
色が非常に多く、それでいて柔らかだ。
 細い緑の糸杉を見る度に、遠い日、ギリシャの博物館で見た青銅製の細い剣を思い出す。
空に向かって突き刺すような無数の剣の、その緑青色が美しい。

 オルヴィエート出口で降り、細い田舎の山道を、まずは一気に50mほど昇り、広大に開けた
高原状の台地を突っ切る真っすぐな道をノンビリと行く。

 雲が切れて来て、時々陽射しが降って来る。ようやく訪れた春に、目一杯芽吹こうとする樹々達が
あちこちで小さな森や林を作っている。
行き交うクルマは一台も無く、急ぐ旅でもないので風景を楽しみながら目的地に向かって行く。

 今日の宿泊地はピティリァーノという、大きな岩盤の上に建てられた古い街だ。
ただ、それは後に控える「メイン料理」でその前に、言わば「前菜、突き出し」として、バーニョ・レージョという、
これもまた、ちょっと考えられない風景の村を先に訪ねる事になっている。

 この「突き出し村」で絶景に軽く馴染んでから、ピティリァーノに行き、しかもそこのパノラマホテルで泊まる
と言う一日である。
 トスカーナ州の特に南部は、かつてエトルリア文明と言うのが非常に栄えた地域で、その村の多くが岩盤の上に建てられ、
それは信じられない風景を作っている。
 エトルリア文明は紀元前8世紀から3世紀まで、高度な文明、進んだ政治機構、高い工芸技術、
地下墓地の習慣などの特徴を持っていたが、ローマ帝国に滅ぼされてしまう。

謎の部分が多い文明だが、それだけにこの文明のファンは結構多いようだ。
 僕は、もっぱらその信じ難い風景に魅せられて、ここ数年、このあたりを廻って撮影を続けて来た。
そして沢山ある岩盤都市の中でも、特に素晴らしいのが今日の目的地の二つだった。

 やがてバーニョ.レージョが、その信じ難い絶壁度でそそり立っているのを一望出来る展望台に着く。
その、岩盤に載った小さな村へは、幅が2mほどの細い橋が架かっている。
そこを歩いて行くと、まるで身体が浮いているような気持ちになる。


バーニョ・レージョにて

 バーニョ・レージョに近づくにつれ、「死に行く村、バーニョ・レージョ」という黄色い道しるべがいくつか立っている。
その表現に、救いようのない想いを感じる。
「死んだ村」でなく、「死に行く村」という表現をせざるを得ないのはなぜか。
 イタリアにいくつもある「死んだ街」として、ヴェネツィアのように、また、フィレンツェのように、数百年前に非常に栄え、
それこそ世界の何分の一かの文化が花開き、そして没落していった・・・その「遺産」で生き延びて行く事が、
この村には出来ないのだろう。

 大した役をもらえず、代表作もほとんどない役者が、自分の肉体を資本として、
その死につつある姿を克明に見せる事で自分を売って行くような、そういう淋しい末路だ。

 その小さな村に一本だけある道を奥の方に歩いて行くと、
「ウチの裏庭から、素晴らしい風景が見られるよ、見て行かないかね・・・」と、老婆が石段に腰掛けて、
通り過ぎる観光客に声をかけている。

 もう3年間、僕がここに来る度に、老婆はいつもそこに居て同じ言葉を繰り返している。

その「ウチの裏庭」に行ったって、特別変わった風景が見られるわけでは無い、
なぜなら、この村のまわり360度全部が凄いパノラマなのだ。
だから僕は一度もその「裏庭」に行った事がない。
そこに入るために、いくばくかのおカネを払うのもバカらしい気もしていたし。
 それでも、ドイツ人の団体が、その「ウチの裏庭」に入って行った。
そして、その時に僕は初めて気づいたのだ、老婆の右足が膨れていて、ネジ曲がっているのに。

 あの足では、先ほどの急な橋や階段は渡れまい、つまりクルマが入って来られないこの「屋上庭園」のような村で、
この老婆は自宅と、あの石段のあたりを中心とした彼女の世界の中で年老いて行くのだ。

 「死に行く村」にて「死に行く老婆」という静謐な事実に出会った一日。

                                (旅ノートより)

 何の事はない、「疲れてるから橋下で昼寝」どころか、やはり対象を目前にして「写真撮りたい病」発作が出たせいで、
気が着いた時にはカメラ一式と一脚を持って、村をウロついていた。
 この村で、軽く昼食をして行こうと言う事になり、某料理店の、どうみても庭の物置周辺に
テーブルを並べてみました・・・という一角で食事。
 ここの女主人の言葉がまた凄い。「この店を開くにあたり、ツーリストの要望に合わせた料理よりは
、地元の素材を伝統的レシピで作り、歴史をしのぶ・・・という路線にしました。
だから、ポテトフライもスパゲッティーも無いですよ」だって。
よーし、判った、おばちゃん!「幼なじみのステファノの畑で取れた小麦をロベルトの水車小屋で挽いた粉で、
フランカのおばあちゃんのアンナ仕込みの農民料理でしょう?それでいいのよー、我々は!

 そういうのを求めて、この5人のコックさん(と言う事にいつの間にか成っている!)が
はるばる9000kmの旅をして来たのだから、もう何でも好きなもの、持って来て!」という感じで答えて、
もうとことん貧しい農民の料理を並べてもらう。
 世界中のどこへ行っても、一番ウマいのは貧民料理で、
とくに粉関係なら間違いはないのだから、ドンドン出してもらう。

それにしても・・・この戸外テーブルの間が抜けたラテンっぽさには心が開いて来る。
 屋根を載せる梁は、良く言えば「遺跡のような壁」、悪く言えば「手入れしてない崩れ落ちる寸前の廃屋」に渡してあり
「おいおい、ここで、カネを取るのかよ」と呆れるほどだ。

 唯一の調度品として、CDミニステレオがあり、スピーカはあっちのほうを向いていたが、
なぜか、ここでキース・ジャレットのケルン・コンサートが掛かっていたのは、もうホラー映画か。
 (そのCDが終わったので、「きっとリチャード・クレーダーマンだろう」と予測したが、幸いにもそれは外れました。)

 食事後、恭子センセも生徒さんも必死に描いている。僕は、日向ボッコしてアイスクリームを食べながらデジカメで遊んでいた。
水彩を描きたいが、「早描きのお恭」センセのように、5分で一枚というのが出来ず、
最低2時間はかかるので、今回も写真のみで過ごした。

 夕方になったので、切り上げてクルマに戻りピティリァーノに向かう。
先ほどアイスを食べたバールのオジさんによると、「1時間半見とけば大丈夫!」だそうだ。

夏時間なので、まだ陽が高いとは言え、7時には着きたい。
 道は小さな丘の尾根を超えた後、逆光に光るボルセーナ湖を見下ろしながら下って行く。

この地方は、紀元前数世紀には、かのエトルリア人がヴォルシーニィと呼んだ地方である
 ボルセーナは「ボルセーナの奇跡」として知られた街だ。
イタリア最大のカルデラ湖(噴火口跡の湖)に面したこの街の教会で、
聖体として置かれていたパンから血が流れるという奇跡が起こった。
この事件がきっかけとなって「聖体の祭礼」という証がたったものだ。

 見晴し台で記念写真を撮る。水面には3つの島が浮いていて、美しい。
恭子センセが「はーい、それではここで一枚!」と言い出す前に出発する。
何しろ、この後にピティリァーノで描く予定で、後に控える絶景を考えると、ここで時間を浪費したくない。

 クルマは順調に、ノンビリと目的地に向かって居たが、この州道のままで行くと、ピティリァーノの裏側の方から着いてしまう。
でもこの街を見晴らす絶景ポイントにはローマ側から着きたい。
すると、カーブを左に切った途端にガーン!!とピティリァーノの絶景が飛び込んで来るからだ。
そのためにわざわざ州道から村道に入り、回り道をして行く。

ボルセーナ以降、生徒の皆さんは午後の瞑想のお時間であったが、
最後の左カーブ手前100mで「はい、到着ですよー」と現世に戻っていただいて、いよいよピティリァーノ入りしたのでした。

 エトルリア人は、長さ300m、幅40m、高さ40mほどの大きな岩盤の上に石の街を造り上げたのだが、
何度見ても素晴らしいパノラマで、やはりさっそく「ハーイ、じゃあ、ここで一枚」と「元締めのお恭」の声が飛ぶ。
すると、4人の生徒さんが適度な間隔を置いてササッと所定位置に着く・・・のだが、
なぜかYさんだけがそのへんに打っちゃってあったパイプイスにしっかりと座っている。

そこから、他の見習い3人に指示をとばすのでは無いか・・・という配置だ。
 そんな感じを写真に撮ると、どうみてもYさんは「現場監督」という貫禄なので、以降、この旅ではそう呼ばれる事になった。
この現場で約1時間、それぞれしっかり、セメントを捏ねてもらって、じゃない、構想をねってもらいつつ、至福の時間を過ごす。

 元締めのお恭、(早描きお恭)は、ちゃっかりクルマの中からスライドドアを開け放って3枚も描いたのには、
いつもながら感服しました。
 僕と娘は、生徒さんから頂いたオセンベイを争いながら食べていた。
が、その間にも夕食の手配とか、ホテルへの連絡とか、「手配師」としての雑用を片付ける。

 夏時間の遅い夕暮れが迫って来ると、時々、岩盤の上にアンバー色の斜光が当たり、その陰影を強くする。
僕の頭に浮かんだのは、100年前にキュビズムが生まれた頃の画家ブラックの作品だった。
風景が立方体で構成されている、あの作品そのもののような風景が目前に展開していた。
 約1時間による現場作業終了後、撤去作業、飯場への移動と順調に進み、
それぞれがさっきまで対象として描いていた岩盤都市の中の、
ひとつの窓から外のパノラマを見るという環境のホテルに落ち着く。

 さっそく、現場でのツナギ服、ヘルメットを脱いで有名な料理店に出かける。
この店Tは、このあたりではレベルの高い地方料理を出す事で、手配師のチェックに合格しており、
数年前、「中年イタリア縦断隊」でも指定店扱いになった処だ。

 ここにていろいろ食べ、かつ飲んだが、ベストは牛のほほ肉煮込みであった。
口に入れ、舌と上歯ぐきの間で押して行くと、少し抵抗した後に肉はホドけながら、
その恵まれた大地の証しとしての芳醇な味と香りが解き放たれて来る。肉を味わいながら、牧草の想像をしているほどだ。

 恭子元締めは、デザートを食べ終わった皿の残りのクリームで、フィレンツェ風景を器用に描き出す。
路上芸で食いながらイタリア縦断する日は近い。

11時頃まで楽しんで宿に帰る。これで寝ればいいものを、今日撮った写真も整理、圧縮,電送を始める。
何でもフィレンツェからの画像が送られてないそうで、日本の方に映像を送ってあげよう、と決意したからだ。
 結局寝たのが2時で、超睡眠不足。明日はピエンツァの駐車場で昼寝をさせてもらおうか・・・と
目論みつつ眠りに墜ちて行った。




トスカーナ神髄旅行記 第二章・緑の海、丘の波を超えて塔の街へ


 旅行に出ると、朝が早い。たとえ疲れていても、毎朝、一応夜明けの時間には目を覚ます。
風景写真を撮る場合、僕は90%を夜明けに撮っている。
いや、正確に言うと「夜明け30分前から日の出1時間後」だけれど。
 日の出30分前には現場に着いて、セメントを、では無い、構想を練っていないといけない。
日の出前、日没後、それぞれ30分ころに、陽光が雲に当たって、それは信じ難い光を造り出す事があり、
「照り返し」と呼んでいるが、それがもし出現した時に、即、撮影出来る体勢でいるためだ。

 今朝の撮影現場は、ホテルの部屋なので、まさに天国。
この雨では撮れないだろうと予想したが、それでも一応夜明け前に目を覚まして、窓の外を見た。
「やはり撮れない」というのを確認して、またベッドに戻り睡眠不足を取り戻すべく一眠り。

次に目を覚ましたら7時だった。

「間組」の皆さんはすでに作業開始をしているだろう。
ぼくもシャワーをして、昨日散らかした荷物を片付ける事にした。何しろ2時過ぎまで写真整理、
電送をしていたので部屋は「山奥ダム工事現場の飯場」のようになっている。
(ダメだ、表現が土木工事モードから抜けられない!)

 やがて朝食時間になったので泉と下に降りる。
このホテルは、なかなか捨て難い。朝食内容も悪くない。
オーナーの奥さんが「このケーキはおいしいから是非食べなさい」と何度も薦めるので、食べてみた。
味は、やっぱり!今イチ。

「何の事はない、昨日の残り物整理じゃないの?」と言う感じだが、この辺のいい加減さに笑える。
イタリアの面白いところだ。

 食事後、11時まで皆さんを放し飼い。岩盤都市なので、道に迷う心配が無く安心。
 岩盤が深く切れ落ちた川の脇に航空母艦のようにそそり立っている、このピティリャーノは
別名「小さなエルサレム」と呼ばれ、ユダヤ教文化との深い関係で知られている。
 細長い街を縦断する2本のメインストリートから無数の路地が走っていて、絵のモチーフには事欠かない。

 狭い街のあちこちに、いくつか小さな見晴し台が作られていて、
その低い手すりからは垂直に数十m切り立った崖を見下ろす事が出来る。

 間組の方が、日本ではまず絶対にお目にかかれない迷路のような街のあちこちでスケッチした後、出発した。
近郊には、そのかわいさで知られたソラーノ、ソヴァーナという村がある。
そのうちのソラーノを見晴らしながら北上し、やがて国道2号線に乗る。

 国道2号線はやがて、広大な丘が、また広大な空を支えている静かな、とてつもなく巨大な空間に進んで行った。
丘の向こうに丘、地平線まで丘が続く。

 緑のバリエーションが無限だ。日本だったら、人造のコース、偽のアップダウン・ヒル、浅い池、
そしてなにより踏めば滲み出てくるほどの除草剤に防備されたゴルフ場だらけになる地形に違いない。

 1990年、僕は末期の腎臓ガンが見つかった父に会うべく4年振りで帰国した。
その頃はバブルの最盛期で、文化交流や機械の据付通訳の予定がずっと先まで詰まっていて、
多分半年は持たないであろう父が危篤になっても、僕の仕事の複雑さから代理人を立てられないので
死に目には会えない、今のうちに顔を見ておいた方が良いだろう、という判断だった。

 シベリア上空の、それこそ果てしない白一色の氷原を超え、飛行機はやがて北海道から一路、成田へと南下して行った。
窓ガラスに額を押し付けて僕は、4年振りの母国の、その春の様子を眺めていた。

 「ただ今福島上空です」というアナウンスがあってからは、眼下に展開するのは、
狂熱的なゴルフブームに浮かされた結果の、それは無惨な大地の姿だった。
 自然の丘や、森や、林は、ゴルフコース設計に基づいて、まず一旦は全部崩され、破壊された後、
改めて「見た目に美しいコース」を作って行く、その造成中の大地の、赤土の色はまさに血の色に見えた。

 痛々しいほどに傷ついた母国を上から見ると、それはちょうど病院のベッドに横たわっているようで、
そういう風景を超えながら自分が今、病院に何を見に行こうとしているのか考えていた。
 消えて行く森、剥がされた緑、造られた「偽の自然」がもたらす水害、土砂崩れ、そして除草剤汚染・・・
こういったものが日本列島を苦しめ出したのは、ちょうどその頃だった。

 自然は、あるがままで充分すぎるほど美しい。
・・こうして国道2号線をゆっくりと流して行くといつも、国土の狭いのにもかかわらず
ゴルフ病に冒された母国を思い浮かべるのだった。

「トスカーナ、そこは農民という名の芸術家が、大地をキャンバスにして、巨大な抽象画を描いているところです。」
 両側に展開し、我々に歓声を上げさせては後に遠ざかって行く無数の丘、その影。

間もなく遥か向こうに、それは一見して格がある街が現れて来る。ピエンツァだ。

 ピッコロミニがやがてピオという名で法王に成る、その故郷の街だ。
当時の理想的な街の形態を具現化させた、(させるべく改築された)街にしては、その規模があまりにもかわいい。
 なによりもこのピエンツァは、丘の波の真ただ中にある小島のようなポジションからの眺めが素晴らしい。
南部に向けて大きく、なだらかなふところで広がるのは、アミアータ山にかけての大地だ。
一方、北部、西部にはもっと小刻みな丘が打ち寄せるように展開している。

 明け方に、夕暮れ時に、何度この尾根の道をゆっくりと、一番好きな音楽を目一杯大きくかけて行き来した事だろう。
その度に自分が自分として生きて行くということの決意と言うようなものを与えられて来た。
それは振り返ってみると、短い、至福の、恍惚としたひとときだった。

 さて、この法王の街で、お薦めの店は3件ある。

オバちゃんの作る家庭料理のハイクラスな味がFだ。
居酒屋か、という賑やかさでヤイヤイやるならBだ。
見た目に派手でないが、一番感激するのがこれから行くLだ。
おっと、もう一軒、高いワインと繊細な料理のPを忘れてはいけない。

 このLは、小さな街の、そのメインストリート突き当たりに、小さな前庭と、狭い室内で、
それはビックリするくらいのパスタとメイン料理を出すので有名だ。

 今日のお薦めは「ピーチ」と呼ばれる、ウドンにそっくりなパスタ。
それにこの店のスペシャルのウサギと子豚だ。
パスタソースは、幸運な日ならば、地元のイノシシのミートソースに巡り会える。

 結果は大満足で、店を出た。入口に九官鳥が居て挨拶していたが、
イタリアは「チャオ」だから簡単だ。フランスに生まれなくて良かった境遇に喜んであげる。
 またこの小さな街で、皆さんを「放し飼い」にして、僕は昼寝をするつもりだったが、
やはり写真撮りたい発作で、あちこち撮ったり、特産の羊チーズを買ったりして過ごす。

ピエンツァを出発して、南側の農道から丘の絶景撮影ポイントに廻る。
そして行きつけの荘園Rに寄る。

 この荘園は僕がこの一帯を撮影に行く時の常宿で、丘の波のど真ん中、
180度東がパノラマ、そして西180度も、またパノラマなのだ。

 ボローニャを夜中に出て、このあたりの撮影現場で夜明けを撮る。荘園Rに9時頃着いて、
暖かいパンと手作りジャムで贅沢な朝食、そして部屋に入って、ひとりのベッドでぐっすり眠る。
時にはそのまま午後まで寝てしまう、幸せなひととき。

 昼は少し書き物をして、夕方の光で撮影。夕食は藤棚の下でオーナー家族、宿泊客みんなでわいわい。
夜10時にはベッドに入り、翌朝、また夜明けを撮る。

 こういう小旅行を繰り返しながら、撮りつづけて来たのがこの一帯で、いつ来ても、
何度来ても、この丘の海はいつも新しい表情を見せてくれた。
 イタリアでも屈指の風景で、映画「イングリッシュ・ページェント」「グラディエーター」等でもロケに使われた一帯だ、
一見の価値はある。
だから、今日は絶対、ピエンツァに皆さんを連れて行きたかった。

 国道2号線に戻り、シエナ方面へ北上して行く。
行き交うクルマはほとんど無く、順調にシエナを通過。ここでシエナに入るのは簡単だけれど、
今回の神髄ツアーの方針は小さな街で、それからちょっと外れる事、行先のサンジミがまた、
充分にシエナをカバーするくらいに素敵なところなので寄らないでさらに北上。

 だが、シエナからフィレンツェまでのバイパスに乗り、二つ目の降り口で「エーイ、降りてしまえ!」と降りる。
緊急寄道だ。

 モンテリッジョーニという、これまたお気に入りのかわいい村があるのだ。

ゲーテが「王冠の村」と呼んだ半径100m程の、20軒くらいの家を囲む石壁の城塞が、丘の上に載っている。
かつては間ツアーで泊まった事もあるし、またトリュフ料理を食べに何度もレストランPに来た。
サンジミニャーノに行くのが今日の目的なのだけれど、恭子センセはビール補給、
皆さんは午後のお茶、ということで、30分ほど寄道だ。

 ここで静かな午後のお茶(ビール?)をして、いよいよ目的地サンジニミャーノに向かった。

 サンジミニャーノ・・・そこは「石塔の街」として知られている。
城壁に囲まれた宝石のようなその街には、中世の時間そのものが未だ息づいている。
トスカーナのみならず、イタリア国内の中でも最もロマンチックな街のひとつだと言える。

  ただ、問題は観光客の人ごみであった・・・なんて言う我々こそがその一部なので大きな顔は出来ないが、
これだけは言える。

 「街の素顔は朝食前と夕方過ぎにこそ見られる」ということだ。特にこの街のように日帰り観光客が押し寄せる街は
泊まってみないとその本当の良さは判らない。

 朝早く、観光客の誰も居ない広場のカフェで、店の前に水を打つ地元の人や、新聞を届けに来た人、
広場の掃除係りの人たちの挨拶とおしゃべりを聞いていると、何だかとても安らいで来る。
8時半頃に、最初の観光バスが着いて、ドイツ人やアメリカ人のグループが広場に上って来ると、
街はよそ行きの顔に豹変し、その仮面は夕食の時間まで取られる事はない。
 今回は、この小さな街の、窓からパノラマを見下ろすホテルBに部屋を押さえておいた。

朝に天気が良ければ、部屋から丘を見下ろした夜明けのスケッチができるわけだ。
 そしてもうひとつ、このホテルのレストランも押さえておいた。
まあ、この街での店は、スローフード系の穴場Dか、パノラマで有名だが味はひどいC,
それにこのホテルのBが有名で、味も良く、ワインもいろいろあり、何よりも便利なので予約しておいた。

 クルマはポッジボンシから降りて、西に向かう。街外れのロータリーを廻ったあたりから
前方の丘の上にひと固まりの石の街が見えて来る。
十数本の高い塔を持つその風貌はちょっと異様だが、本当にあそこの街に泊まれるという事が心を踊らせる。

 夕暮れの美しい時間に城門を入り、ホテルに落ち着く。散歩をしてから、レストランへ。
メニューを、いろいろ食べたいので、手配師として奥の手を出すことにする。

「この方たちは、東京近くにお住まいの、食事作りのプロです。
今回はイタリア料理の神髄を求めて、各都市で著名な店を食べ歩いています。
量は少なくて申し訳ないのですが、いろいろな料理を味見させて下さい」という、あれだ。

 昨年も、温泉地シルミオーネでメニューにないスパゲッティまで出してもらった。

 なーに皆さん、主婦として食事に全力を尽くしているのだから「プロ」だ、ウソは言ってない・・・
というのが僕とセンセの合意点。(このKセンセ、かなりラテン系ですな、さすが元締め)

こうして、鳩や羊や豚や牛がテーブルの上を通過して行った、それは素敵なディナーだった。

 部屋に戻り、窓から下の夜景を見る。あちこちに家々の小さなかたまりが光の群れとして散らばっている。
 かつて放心のためにこの街に来て、窓から夜の丘を見下ろしながらプロセッコの栓を開けて
コルクを飛ばし、「街と乾杯した」思い出が蘇る。

 明日は晴れるかな、と肌寒いけれど窓を開けて外を見ていると、教会の鐘が響いて来た。

・・・最後の一日、やはりあそこに行こう、と決意して眠りについた。



トスカーナ神髄旅行記 第三章・ヴィンチ村にて混沌的内面旅行完結


 梅雨時の朝のような、不器用に脱色した夜明けだった。少なくとも写真には向いてない。
水彩ならば結構いい感じで描けるのだが、今回はウインザー・ニュートン一式を持って来てないので、潔く諦める。
「そのかわり、朝湯だ!」と朝からお風呂に入る。
娘はまだ寝ている。

 自宅に居ても、シャワーばかりで、なかなかバスタブに浸からなくなっていたので、久々にリラックス。
風呂上がりで外を見ると、下の階にある大きなテラスでカップルが写真を撮っている。
女性はどう見てもアジア系だ。テラスに立って、雨模様のサンジミの石の街を背景にして記念写真を撮るべく、
男の方がポーズを付けている。
その指示はドイツ語だ。

 下に降りて朝食を取っていると、先ほどのドイツ人カップルがやって来る。
女性は旦那より15才は若いか。アジア系だが、フィリピンでは無く、インドネシアかタイ系だと推測した。
で、バツ1のドイツ人実業家と、公式、非公式は不明だが、
長い間の夢だったトスカーナ旅行をしている・・・というのが見え見えであった。
残念ながら今日は朝から雨だ。

 瀟々と降る、という表現が当たっている降り方だが、それはそれでサンジミに似合ってしまう。
これで僕も好きな人と一緒ならば、朝風呂に入ってから毛布の下で、とろとろ朝寝で昨日の夢の続きを見るのだが、
人生はそうウマく行かない事になっている。

 今日の予定ですが・・・と間一行に切り出す。
(カンと読まないで、ハザマ と読んではいけない。間組、ハザマグミ・・・になってしまう)
「ダ・ヴィンチの生まれたヴィンチ村に廻りましょうか?」と言うと、元締めお恭が
「そ、それができれば・・・最高だわねー」ということなので、ヨーシ、行くぞ!と出発。

 モノが産まれるには必然性がある。美味しい水から美味しい米が、麦が、そしてパンが出来るように。
また陽射しと、空気と、土がウマく合えば、低い確率ながら、美味しいオリーブやぶどうができるように、
ものには「必然の故郷」と言う要素がある。
 そう言った意味では、モノが産まれる土地を訪ねる事は、限りなく有意義なことだ。

特に芸術家の生地、そこには「感性のルーツ」がある。
 偉大な芸術家の幼少時、その芸術の方向性を決定づけた親、学校、先生といった環境はもちろん、
忘れて行けないのは自然環境だ。だからそこまで行かないと始まらない。
・・・光はどうか、風はどっちから吹くか、等々、行けばその現地で様々な事を感じる事ができる。

 一昨年、南のナポリあたりに行く放心旅行を、衝動的に北に向かい、ザルツブルグまでの600kmを半日で移動、
モーツァルトの生家を訪ねた事があった。絵本のイラストのような、美しい街で、
その薄暗いけれど、暖かい色の壁を持った生家の部屋を巡りながら、「もしかしたら天才は作られるのでは無いか」
という思いに捕われていた。
 モーツァルトの場合、父が有名な音楽家、その、元々の血筋に英才教育が加わって、
12才ですでにイタリアへの演奏旅行をしている少年は、
言わば「モーツァルト家の芸術感性の集大成」としてその才能が華開いたとしか思えない。

 しかし・・・と僕は思った。解説を読んでみると、モーツァルトの姉もかなりの才能を持っていたのは違いない。

で、彼女か、弟が・・・という選択をする時に、この2人から(いや、もっと正確に言うと
父自身も含めた3人の「候補」がいたチームだったのだろうが)アマデウスが「代表」として選ばれた感じがした。
 この時、遥かオーストリアの小さな街まで訪ねて来て、思い浮かんだのはなぜか・・・華岡青洲だった。

 日本最初の麻酔実験を行なうのは青洲だが、その血筋には父が、
祖父が築き上げつつ合った「職業上の文化的資産」があった。
それがあったからこそ、(ようやく3代目にして)技術の高みに到達出来たのだ。

 「職業上の文化的資産」という言い方は、いっそ「夢」と置き換えても良いかも知れない。
祖父の、父の「夢」を3代目が具現化したと置き換えると、判りやすい。
それは「モーツァルト家の夢」を実現させた少年と重ねると、洋の東西に関わらず真理は似ていると思えた。
 そしてまた、麻酔実験の裏には、青洲の妻と姉という
二人の女性のほとんど「自殺行為に等しい」献身的協力があった、というのも意味深い。
モーツァルト姉が、自分の才能開花を諦めて行くと言う行為は、芸術家にとっては「精神的な自殺行為」だから。

 どちらかというと、僕はその姉の無念さに激しく共感し、春の雨の中をザルツの城に登った。
日本画壇の求心者、東山魁夷の作品モチーフで有名な石の要塞である。
 上の展望台から下の街を見下ろすと、父の画策、姉の無念、弟の栄光・・・
そういったもの一切が春先の霧の中に仲良く霞んでいた。

 が、しかしだ。その栄光を極めた弟の没落、墓地も判らない末路を考えてみると、
シアワセとは何だろうと考えさせられた。

 で、レオナルドである。
彼の場合には、上で書いたような家系の歴史、親の素質といった流れを一切見つけられないのだ。
父親は芸術とは無関係、3度の結婚をしているので、「感性」の資質というよりは「性感」の資質があった、
と言う方が当たっている。
母のカテリーナは謎の人物だが、この両親から才能を受け継いだと言うのが考えにくい。

 「じゃ、なぜあれだけの、凄い、そして沢山の事を成し遂げたのか?」
(いや、もっと沢山の「成し遂げられなかったこと」も想像を絶するけれど)という疑問が出て来る。

 この辺の話題で、昨年末にイタリア訪問をして、
フィレンツェでダ・ヴィンチに魅せられた日本人の方が僕の村まで訪ねて来て、
地元の料理店でトリュフを楽しみながら素敵な夕ご飯を過ごしたことがあった。

 レオナルドに関してのいろいろな疑問が白いテーブルクロスの上に積上げられたが、
地元ワインによるシアワセ酔いのおかげもあって、

「えーい、彼は、人類じゃないね!」
というひとことで一切の疑問が氷塊し、

「そうか、宇宙人が、当時の文化の中心地フィレンツェに近い、人里離れた山村に遣わしたのがレオナルドなんだ!」
と激しく合意。

つまり、彼の手を経て人類の技術、芸術のレベルを上げさせるための特使・・・
という日本テレビ金曜特集並みの結末で、「手打ち」をしてグラッパで乾杯したのでした。
(この辺、かなりいい加減だけれど、レオナルド心酔者なら同意してくれるのは確実!)

 雨のサンジミニャーノを11時に出発。北側の谷へ降りて行く州道をゆっくりと行く。
右に左にトスカーナの風景が変化、展開しつつ過ぎて行く。3回程、撮影小休止。
 沢山の色、様々な形、微妙な光・・・自然はそのままで、充分すぎるほど美しい。

「自然をありのままに写し取る」とはレオナルドの言葉だが、
「そのままで写し取る気持ちにさせてくれる風景」を目前にする幸せ、というのを感じる。

(目がコーコツしまくって、パワーを充電している感じ。)

・・・人間の描く作品は全て自然の模倣に過ぎないというのを彼は謙虚に知っていた。
 そんなリオナールド少年が幼少を過ごした鄙びた村に行くことで、トスカーナ神髄旅行と名付けた
今回の小旅行は完結するのだが、ここに至っては、イタリア人でも地球人でも宇宙人でも良いのだった。


大事な事は、500年前、その村にひとつの生命が突然出現し、芸術、科学、技術の面で
「早く生まれすぎた思想家」として人類を変える小さなきっかけとなったことなのだから。


 クルマは右も左もオリーブの畑という細い山道を登って行く。オリーブは愛情を込めて手入れされ、
美しく積上げられた石垣がいたるところに展開する。
道が舗装されたことを除けば500年前とほとんど変わっていない風景があった。


 そこには、生家の観光客目当ての土産物屋も、食事処も、観光パンフも無い、素朴な、500年前の貧しい農家があった。

 雨空は相変わらず動き続けていて、時に陽がサッと射す。
小鳥が沢山さえずっている。

そんな素朴な空気の中で

「豊穣を産む貧しさとは何か」という疑問から発展して

「(精神的)貧困を産む(物質的)豊穣とは何か」なんてことまで考えさせてくれた。

 それは、トスカーナを廻りながら、実は自分の内面の旅が出来た3日間の「混沌的思索行」終焉の地として、
まさに理想的な、ヴィンチ村訪問であった。



(トスカーナ神髄旅行記 完)



注1?題名がトスカーナ神髄旅行記となっていますが、正確には、初日のバーニョ・レージョだけはオルヴィエート、
つまりウンブリア州になります。しかし、ピティリァーノ以降はずっとトスカーナ州のため、
今回の旅行はあえてトスカーナ神髄旅行という命名になっています。

注2?あちこちのいろいろな情報を盛り込んでいますが、私は美術史家でも、文学史家でもモーツァルト研究家でもないので
独断で書いています。よって、厳しいツッコミをされても困りますから、軽い文章として読んで下さい。

注3?土地名は現地読みに基づいていますが料理店、ホテル名は明記していません。
これは、間グループ以外に情報が漏れると、数年後には日本人だらけに成る危険性があるためです。

何よりも自分のための秘密の場所なので、今回同行された方も情報の漏洩を守るべく、ご協力をお願いします。
が、もし個人的に(フルムーン、再ハネムーン!などで)行かれる場合は情報を出しますのでご一報下さい。