トスカーナ神髄旅行記 第一章・エトルリア文明の岩盤都市を巡る
ここ数日に渡って降り続いた雨がきれいに上がった快晴の朝、6時に地元のサヴィーニョ村を出発する。
ちょうど夏時間になったばかり、低い陽射しに輝く満開の桜の華を左右に見ながら、アペニン山脈を超えるべく高度を上げて行く。
イタリアの背骨と呼ばれるアペニン越えをする頃に、快晴の空の片隅にしっかりとした雲が貼り付いているのを認識する。
それは、アペニン山脈の最高点、その峠近郊に被さった黒雲の一群だった。
「あそこから霧に突入して、まもなく雨が降るよ」と助手席の娘に告げる。
やがて、予想通りに、いや予想以上に激しい雨が降り出し、クルマのスピードを落としながらアペニン山脈を超える。
エミリア・ロマーニャ州からトスカーナ州に入るだけで、なぜこんなに僕の血が騒ぐのかいつも不思議なのだが、
それは明らかな事実で、身も心も軽くなって来る。
トスカーナ・・・その、芸術と食事と風景の聖地に、今回の「間ツアー」の方々を連れて行くのが目的だった。
で、今までの経験を踏まえて、今回は日程を以下の様に組んだ。
一日目はエトルスキ文明の岩盤都市の絶景と食事。
バーニヨ・レージョ経由ピティリャーノ泊まり
二日目はトスカーナ丘陵地帯と絶句食事、絶品酒、サンジミの素晴らしさ。
ピエンツァ経由サンジミ泊まり
三日目は体調により、いかようにでもツブシをきかせる。
全く予定無し(一応は)
という計画であった。
今回のドライブ日程では、トスカーナの部だけで500km程度、それにボローニャ往復の250kmを加えて、
まあ、800km以下の予想だった。
初日の今日は350kmで、年間4万km運転する僕にとっては許容範囲だが、旅行の準備で前夜4時間しか寝ていないし、
3月から技術通訳の仕事が連続していた疲れと相まって、体調は決して良いとは言えない。
バーニョ・レージョに着いたら、あの岩盤の上の村は恭子センセにお任せして、僕は橋の下で
少し昼寝させてもらおうか・・・と目論んでいた。
クルマはアペニン山脈の南側に廻って、フィレンツェまでの長い下りにかかる。
ドイツから文豪ゲーテが「光の国」として憧れたイタリアの、そのもっともイタリアらしい「アペニン以南」へ降りる道だ。
天気が良ければここからプラート、フィレンツェが一望に見渡せるのだが今日は全く見えず、
洗車トンネルの中に入ったような雨がクルマを叩く。
やがてフィレンツェの環状線部に入り、思ったより快適に走って来ているのに安心する。
晴れていれば、遥か遠くにあの大聖堂のクーポラが見えるのだが、たれ込めた雲で見えない。
SIGNA口から降りて、中心に向かって行く。当てにしていた橋が工事中で渡れないのでかなり大回りして、
それでも予定通りの時間にレンタカー事務所に着き、クルマを受け取る。
ベンツの8人乗り、5mを超えるミニバスで、泉は大喜び。さっそく間一行様をお迎えに。
恭子センセとは2ヶ月振り。他のメンバーとは全員初めてのお目見え。
しかし、初めてのイタリアで、この「ドプイタツアー」、いや改め、「トスカーナ神髄ツアー」に参加なんかしたら
後が大変ですよ、と助言したくなる。
なにしろ僕が代表の「KHK,感性保存協会」推薦の5感解放ツアーだから、イタリア病感染間違いなし、
後に日本で後遺症に苦しむ事になります。(現にKセンセが重症患者です)
どうにかフィレンツェを抜け出して、高速で一気に南下、1時間ちょっとで、サッと150kmを稼いでしまう。
トスカーナ特有の小さな丘や無数の糸杉は、薄くかかったベールの向こうで滲むように移動して行く。
色が非常に多く、それでいて柔らかだ。
細い緑の糸杉を見る度に、遠い日、ギリシャの博物館で見た青銅製の細い剣を思い出す。
空に向かって突き刺すような無数の剣の、その緑青色が美しい。
オルヴィエート出口で降り、細い田舎の山道を、まずは一気に50mほど昇り、広大に開けた
高原状の台地を突っ切る真っすぐな道をノンビリと行く。
雲が切れて来て、時々陽射しが降って来る。ようやく訪れた春に、目一杯芽吹こうとする樹々達が
あちこちで小さな森や林を作っている。
行き交うクルマは一台も無く、急ぐ旅でもないので風景を楽しみながら目的地に向かって行く。
今日の宿泊地はピティリァーノという、大きな岩盤の上に建てられた古い街だ。
ただ、それは後に控える「メイン料理」でその前に、言わば「前菜、突き出し」として、バーニョ・レージョという、
これもまた、ちょっと考えられない風景の村を先に訪ねる事になっている。
この「突き出し村」で絶景に軽く馴染んでから、ピティリァーノに行き、しかもそこのパノラマホテルで泊まる
と言う一日である。
トスカーナ州の特に南部は、かつてエトルリア文明と言うのが非常に栄えた地域で、その村の多くが岩盤の上に建てられ、
それは信じられない風景を作っている。
エトルリア文明は紀元前8世紀から3世紀まで、高度な文明、進んだ政治機構、高い工芸技術、
地下墓地の習慣などの特徴を持っていたが、ローマ帝国に滅ぼされてしまう。
謎の部分が多い文明だが、それだけにこの文明のファンは結構多いようだ。
僕は、もっぱらその信じ難い風景に魅せられて、ここ数年、このあたりを廻って撮影を続けて来た。
そして沢山ある岩盤都市の中でも、特に素晴らしいのが今日の目的地の二つだった。
やがてバーニョ.レージョが、その信じ難い絶壁度でそそり立っているのを一望出来る展望台に着く。
その、岩盤に載った小さな村へは、幅が2mほどの細い橋が架かっている。
そこを歩いて行くと、まるで身体が浮いているような気持ちになる。
バーニョ・レージョにて
バーニョ・レージョに近づくにつれ、「死に行く村、バーニョ・レージョ」という黄色い道しるべがいくつか立っている。
その表現に、救いようのない想いを感じる。
「死んだ村」でなく、「死に行く村」という表現をせざるを得ないのはなぜか。
イタリアにいくつもある「死んだ街」として、ヴェネツィアのように、また、フィレンツェのように、数百年前に非常に栄え、
それこそ世界の何分の一かの文化が花開き、そして没落していった・・・その「遺産」で生き延びて行く事が、
この村には出来ないのだろう。
大した役をもらえず、代表作もほとんどない役者が、自分の肉体を資本として、
その死につつある姿を克明に見せる事で自分を売って行くような、そういう淋しい末路だ。
その小さな村に一本だけある道を奥の方に歩いて行くと、
「ウチの裏庭から、素晴らしい風景が見られるよ、見て行かないかね・・・」と、老婆が石段に腰掛けて、
通り過ぎる観光客に声をかけている。
もう3年間、僕がここに来る度に、老婆はいつもそこに居て同じ言葉を繰り返している。
その「ウチの裏庭」に行ったって、特別変わった風景が見られるわけでは無い、
なぜなら、この村のまわり360度全部が凄いパノラマなのだ。
だから僕は一度もその「裏庭」に行った事がない。
そこに入るために、いくばくかのおカネを払うのもバカらしい気もしていたし。
それでも、ドイツ人の団体が、その「ウチの裏庭」に入って行った。
そして、その時に僕は初めて気づいたのだ、老婆の右足が膨れていて、ネジ曲がっているのに。
あの足では、先ほどの急な橋や階段は渡れまい、つまりクルマが入って来られないこの「屋上庭園」のような村で、
この老婆は自宅と、あの石段のあたりを中心とした彼女の世界の中で年老いて行くのだ。
「死に行く村」にて「死に行く老婆」という静謐な事実に出会った一日。
(旅ノートより)
何の事はない、「疲れてるから橋下で昼寝」どころか、やはり対象を目前にして「写真撮りたい病」発作が出たせいで、
気が着いた時にはカメラ一式と一脚を持って、村をウロついていた。
この村で、軽く昼食をして行こうと言う事になり、某料理店の、どうみても庭の物置周辺に
テーブルを並べてみました・・・という一角で食事。
ここの女主人の言葉がまた凄い。「この店を開くにあたり、ツーリストの要望に合わせた料理よりは
、地元の素材を伝統的レシピで作り、歴史をしのぶ・・・という路線にしました。
だから、ポテトフライもスパゲッティーも無いですよ」だって。
よーし、判った、おばちゃん!「幼なじみのステファノの畑で取れた小麦をロベルトの水車小屋で挽いた粉で、
フランカのおばあちゃんのアンナ仕込みの農民料理でしょう?それでいいのよー、我々は!
そういうのを求めて、この5人のコックさん(と言う事にいつの間にか成っている!)が
はるばる9000kmの旅をして来たのだから、もう何でも好きなもの、持って来て!」という感じで答えて、
もうとことん貧しい農民の料理を並べてもらう。
世界中のどこへ行っても、一番ウマいのは貧民料理で、
とくに粉関係なら間違いはないのだから、ドンドン出してもらう。
それにしても・・・この戸外テーブルの間が抜けたラテンっぽさには心が開いて来る。
屋根を載せる梁は、良く言えば「遺跡のような壁」、悪く言えば「手入れしてない崩れ落ちる寸前の廃屋」に渡してあり
「おいおい、ここで、カネを取るのかよ」と呆れるほどだ。
唯一の調度品として、CDミニステレオがあり、スピーカはあっちのほうを向いていたが、
なぜか、ここでキース・ジャレットのケルン・コンサートが掛かっていたのは、もうホラー映画か。
(そのCDが終わったので、「きっとリチャード・クレーダーマンだろう」と予測したが、幸いにもそれは外れました。)
食事後、恭子センセも生徒さんも必死に描いている。僕は、日向ボッコしてアイスクリームを食べながらデジカメで遊んでいた。
水彩を描きたいが、「早描きのお恭」センセのように、5分で一枚というのが出来ず、
最低2時間はかかるので、今回も写真のみで過ごした。
夕方になったので、切り上げてクルマに戻りピティリァーノに向かう。
先ほどアイスを食べたバールのオジさんによると、「1時間半見とけば大丈夫!」だそうだ。
夏時間なので、まだ陽が高いとは言え、7時には着きたい。
道は小さな丘の尾根を超えた後、逆光に光るボルセーナ湖を見下ろしながら下って行く。
この地方は、紀元前数世紀には、かのエトルリア人がヴォルシーニィと呼んだ地方である
ボルセーナは「ボルセーナの奇跡」として知られた街だ。
イタリア最大のカルデラ湖(噴火口跡の湖)に面したこの街の教会で、
聖体として置かれていたパンから血が流れるという奇跡が起こった。
この事件がきっかけとなって「聖体の祭礼」という証がたったものだ。
見晴し台で記念写真を撮る。水面には3つの島が浮いていて、美しい。
恭子センセが「はーい、それではここで一枚!」と言い出す前に出発する。
何しろ、この後にピティリァーノで描く予定で、後に控える絶景を考えると、ここで時間を浪費したくない。
クルマは順調に、ノンビリと目的地に向かって居たが、この州道のままで行くと、ピティリァーノの裏側の方から着いてしまう。
でもこの街を見晴らす絶景ポイントにはローマ側から着きたい。
すると、カーブを左に切った途端にガーン!!とピティリァーノの絶景が飛び込んで来るからだ。
そのためにわざわざ州道から村道に入り、回り道をして行く。
ボルセーナ以降、生徒の皆さんは午後の瞑想のお時間であったが、
最後の左カーブ手前100mで「はい、到着ですよー」と現世に戻っていただいて、いよいよピティリァーノ入りしたのでした。
エトルリア人は、長さ300m、幅40m、高さ40mほどの大きな岩盤の上に石の街を造り上げたのだが、
何度見ても素晴らしいパノラマで、やはりさっそく「ハーイ、じゃあ、ここで一枚」と「元締めのお恭」の声が飛ぶ。
すると、4人の生徒さんが適度な間隔を置いてササッと所定位置に着く・・・のだが、
なぜかYさんだけがそのへんに打っちゃってあったパイプイスにしっかりと座っている。
そこから、他の見習い3人に指示をとばすのでは無いか・・・という配置だ。
そんな感じを写真に撮ると、どうみてもYさんは「現場監督」という貫禄なので、以降、この旅ではそう呼ばれる事になった。
この現場で約1時間、それぞれしっかり、セメントを捏ねてもらって、じゃない、構想をねってもらいつつ、至福の時間を過ごす。
元締めのお恭、(早描きお恭)は、ちゃっかりクルマの中からスライドドアを開け放って3枚も描いたのには、
いつもながら感服しました。
僕と娘は、生徒さんから頂いたオセンベイを争いながら食べていた。
が、その間にも夕食の手配とか、ホテルへの連絡とか、「手配師」としての雑用を片付ける。
夏時間の遅い夕暮れが迫って来ると、時々、岩盤の上にアンバー色の斜光が当たり、その陰影を強くする。
僕の頭に浮かんだのは、100年前にキュビズムが生まれた頃の画家ブラックの作品だった。
風景が立方体で構成されている、あの作品そのもののような風景が目前に展開していた。
約1時間による現場作業終了後、撤去作業、飯場への移動と順調に進み、
それぞれがさっきまで対象として描いていた岩盤都市の中の、
ひとつの窓から外のパノラマを見るという環境のホテルに落ち着く。
さっそく、現場でのツナギ服、ヘルメットを脱いで有名な料理店に出かける。
この店Tは、このあたりではレベルの高い地方料理を出す事で、手配師のチェックに合格しており、
数年前、「中年イタリア縦断隊」でも指定店扱いになった処だ。
ここにていろいろ食べ、かつ飲んだが、ベストは牛のほほ肉煮込みであった。
口に入れ、舌と上歯ぐきの間で押して行くと、少し抵抗した後に肉はホドけながら、
その恵まれた大地の証しとしての芳醇な味と香りが解き放たれて来る。肉を味わいながら、牧草の想像をしているほどだ。
恭子元締めは、デザートを食べ終わった皿の残りのクリームで、フィレンツェ風景を器用に描き出す。
路上芸で食いながらイタリア縦断する日は近い。
11時頃まで楽しんで宿に帰る。これで寝ればいいものを、今日撮った写真も整理、圧縮,電送を始める。
何でもフィレンツェからの画像が送られてないそうで、日本の方に映像を送ってあげよう、と決意したからだ。
結局寝たのが2時で、超睡眠不足。明日はピエンツァの駐車場で昼寝をさせてもらおうか・・・と
目論みつつ眠りに墜ちて行った。
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